傷だらけの心に宿る悠久の時3.
戦況の悪化を告げてきたボリビア自治に携わる第六師団三個中隊は既に半壊滅状態にあった。
「六師の第一中隊所属の庄司、酒井両曹長以下、第二中隊三名、第三中隊でも三名の殉職者が出ている。どうかこの隊が一人も欠ける事無く、再び日本の地を踏める事を祈っている。」
初日にそう言っていた四師二連隊長であった稲本が、負傷した部下の代わりに前線へ出て殉職したのは、僅か五日後の事だった。指揮官を失った軍隊は戦場では足手纏いにしかならない。体制を組み直すにも、時間が必要との事で、野明達四師二連隊三中隊共に帰国命令が下った。やり切れない思いで帰国準備をしていた野明の元に、他二中隊の隊長である鈴峰と杜谷がやって来た。
「第一中隊は負傷帰国で一人少ないが、全員現場にこのまま在居になった。」
「指揮官無しで?」
「来るんだとさ。」
三人の隊長共々、四師の人間はどこかしらに包帯を巻いていた。
「新しい四師第二連隊の隊長が拝命して来る。」
「早いね。」
「もう異動が決まってたんだよ。稲本元指令。」
今はもう居ない上官の名だが、ここが戦場である以上いちいち涙してなど居られない。悲しむのは帰国してから。野明達にはそれが無言の了解だった。
「着任には一月早いが、辞令は受けたから直で来るってさ。」
ぺらりと手渡された指示書に目を通し、野明は眉を寄せた。
「公布が三日も前だ。」
「アドレスが稲本元司令官宛だったんだ。誰も殉職者のメールボックス覗かないだろ?」
「本部も間抜けなコトしやがる。慌てて気付いて今日んなって鈴嶺んトコに転送してきたんだ。危うく俺達は何も知らずに帰って、命令無視になるトコだぜ?」
冷静な第一中隊長の鈴嶺と違って、第三中隊長の杜谷は口が悪いが、二人共に野明を信頼してくれる良き仲間でもあった。
「しかも階級しか書いてなくて、名前も無い…。」
「余程慌てたんだぜ。」
「どこの誰なんだろうね。」
「俺だよ。」
指令コンテナに入ってきた男を見て、野明は目を見開いた。
「遊馬…。」
「本部からの通達が遅れていた様で申し訳ない。前四師第二連隊隊長稲本指令の後任になった篠原だ。」
「…篠原…中佐殿?奥多摩訓練校教官であられた。」
「そうだ。幸い初対面と言う感じでは無さそうだな。」
鈴嶺、杜谷共に遊馬の育てた部下を使用してもいる。その教官の顔を見た事があるのは一度や二度では無かった。
「泉のバックだったっけ…なるほど、上もたまには正しい人選をする。よろしくお願いしますよ、中佐殿。」
「上の人選が正しいかどうかは、その目を持って確かめろ、杜谷大尉。」
遊馬はにやりとした。
「幸い撤収準備中だった為、時間は稼げそうだ。正規自治部隊の第六師にもう暫く踏ん張ってもらえ。全隊員のデータと地形データを。シフトを組み直す。それから泉中尉。」
「は…はい。」
「貴官は現刻を以って大尉に返任となる。最初の命令だ。髪を切れ。」
もう過去を背負う暇は与えない。過去を背負う事も無い。見慣れた、それでも酷く久しぶりに見る気がする鳶色の瞳に見詰められ、野明はゆっくりと右手でウエストのナイフを引き抜くと、赤い髪を掴んでばっさりと切り捨てた。
「…御意。」
「思い切ったな。」
「ありがと。」
苦笑した鈴嶺の持つゴミ箱に、野明は握ったままだった赤い髪の束を落した。頭が軽い。肩の凝りも緩みそうだった。
「大尉等三名には今まで以上に働いてもらう。その覚悟をしてもらいたい。」
「願っても無い。」
「了解しました。データです。」
「三十分くれ。その間に撤収準備を解き、鈴嶺、杜谷隊は待機。赤鬼隊は警戒警備に出ろ。」
「了解。」
三名の隊長の敬礼が揃い、一斉に指令コンテナを出て行った。
戦況は悪化の一途。部下、レイバー共に総数三十、二十四機に欠けている。遊馬はパソコンの使えない状況下で、大量のデータに目を走らせる事に集中した。
警戒警備を第一鈴嶺隊に引き継ぎ、野明はシャワコンに居た。
「入るぞ。」
「遊馬…。」
「シャワーの前に、髪揃えてやる。そこ座れ。」
「…あたしの髪を切らせたのは計画通り?」
「俺の下に居て死なれんのも御免だしな。お前はショートの方が似合う。もういい。身軽になれ。身軽になって、十分に働けよ。赤鬼。」
シャキシャキと小気味良い鋏の音がして、野明の心には一片の曇りも無く晴れ渡って行く様に感じられた。
イギリス軍が先陣を切って強制鎮圧に出、四師を始めとした同盟各国自治軍もそれに協力。四師の面々が日本へと戻れたのは、更に一ヶ月が経った後だった。その頭数は一人として減ることは無く、重傷者も記録されなかった。
「さてと。」
部下が解散し、四師二連隊の隊長と、三中隊長のみが基地本部へと向かって歩いて居ると、不意に鈴嶺が振り返り、その拳を左の頬に受けて遊馬は転倒した。
「なっ…。」
「悪く思わないで下さい。中佐は御存じ無いでしょうが、現場には必ずある入隊の歓迎儀式です。」
常に沈着冷静を旨とするタイプの鈴嶺の言葉に、最初の驚きを通り過ぎた遊馬はにやりとして切れた口の端を舐めた。
「成る程。俺は貴官らの目に適ったと言う訳か。」
「ま、疑う余地はありませんでしたよ。泉の元パートナーですし。」
野明を見れば、その口元を片手で隠してはいるものの、その顔に宿る笑みは隠し切れない様だった。
手粗い歓迎ではあるが、生死の掛かる現場に居る以上、必要不可欠なのだろう。無用な争いを好まない野明が静観している。恐らく相手の力量によって担当は代わり、新入りが女性軍人なら野明が相手と言う所か。そして。遊馬が立ち上がると、どう見ても腕っ節に一覚えありそうな杜谷までが、鈴嶺の隣で拳を握ってにんまりとしている。
「お前ら俺を買い被り過ぎだろ。元地方公務員の予備校上がりだぞ。」
「自分は事務畑出身ですよ。」
「力量は見定めました。元教官殿。」
「助っ人は無しか?野明。」
「こればかりはあたしも止められない。」
両手を顔の横で開き、完全に面白がった笑みを浮かべた野明を睨みつけ、遊馬は軽く体を解すと二人の部下に向き直った。全く、いい性格になった物だ。訓練校を訪ねて来る野明はいつも儚げであったのに。
「いいだろう。相手になる。」
日の傾きかけた基地の隅にある緑地帯。観客は野明一人。二対一のドッグファイトが始まっていた。
「…また念入りに遣り合った物だな。」
真新しい、明らかに殴り合いと分かる傷だらけの三人の男と、笑いを堪える野明の前で報告を聞く為に定時を大きく回ってもまだ残っていた上官。その男の名を、遊馬は今更ながらに思い出していた。
来年定年を迎える中将。彼には元自衛官で、軍人でもあった妻があり、名を環と言った。
「着任の御挨拶が遅れました。特海四師第二連隊長に着任致しました。篠原遊馬中佐です。どうぞ御見知り置きを。」
「良く知ってるさ。昔からな。着任を歓迎しよう。この度の手腕、見事だった。今後もその位に恥じる事無く、十分に持ち得る力を発揮する様に。各中隊長も御苦労だった。良く休んでくれ。」
「失礼致します。」
四人の敬礼と声が嘘臭い程に揃い、一同はドアを出た。その背に、不破中将の声が掛けられた。
「泉大尉。」
「はい。」
「近い内にまた食事に来るといい。環が待っている。」
「ありがとうございます。是非。」
野明はもう一度上官に敬礼し、ドアを閉めた。
「不破さんと良く会うのか?」
「遊馬は奥多摩に篭り切りだったもんね。」
野明は基地内にある訓練場の水道で濡らしたタオルを遊馬の腫れた顔へ当てて笑った。
「あたしに軍人になれと言ったのはあの人だもの。責任感じてるんじゃない?あたしが戻る度に手料理御馳走してくれるんだ。鈴も杜も良く呼ばれるし。前指令も良く一緒に行った。遊馬も行こうよ。美味しいよ不破さんの御飯。」
「ああ…。」
遊馬は煙草を銜えて溜息を吐いた。
「疲れた?」
「そりゃな。軍人になって初めての実戦が、三十人の部下を持つ指令だ。しかも戦況最悪で。」
「遊馬の弱音なんて初めて聞くかな。」
「俺は棒っ切れでもターミネーターでもねぇよ。」
「分かってる。ね、煙草頂戴。」
「ん。」
遊馬は自分の顔と額を冷やす為両手の塞がっている野明へ自分が銜えていた煙草を銜えさせた。一息大きく吸い込んで、ゆっくりと煙が吐き出される。そして煙草を唇に挟んだまま、野明は笑った。
「遊馬いい顔してるよ。」
「お前もな。」
遊馬は疲れと怪我でだるい体を、後ろ手に両手を付く事で支え、氷嚢とタオルの冷たい心地良さに目を閉じた。
野明と遊馬の現実が、やっと重なった。戦場の野明は生き生きとし、美しい獣の様だった。赤鬼としての権威以上に、戦いの申し子と言って過言ではない。そして、男社会であるこの戦場で、戦いとは違う意味で無事で居られたのは、鈴嶺と杜谷。二人の良き仲間に恵まれた事もあったろう。野明と居る彼等はまるで赤鬼の左右を守る闘神の様でもあった。宛ら阿吽の金剛力士像か。
「…なぁ。」
「んー?」
「お前かなり居心地いいだろ、四師。」
「篠原中佐には適わないデスね。」
煙草を噛んでにやりとした野明の顔。遊馬は呆れた溜息を吐いて、もう一度目を閉じた。
「お前の周りにはいい仲間が集まる。」
「自画自賛してるみたいに聞こえるね。」
本気で限界を極めた戦場も、野明が居るならそれもいい。中佐。と呼ばれるのも悪くない。遊馬は何の進展も無いこの時間をもう少し続けてみたいと思っていた。
Fin…